日本書紀&古事記における大和政権の国土統一

天皇(大王)の祖先は、日の神、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫ということになってます。
この天照大御神から何代目かわかりませんが、初代天皇として神武天皇が登場します。神武天皇によって大和政権の基礎が成立し、倭建命の活躍によって大和政権の国土統一がほぼ完成されたと考えられるます。ここでは第1代の神武天皇から倭建命が活躍した第12代景行天皇の時代までの国土統一に向けての動きを大まかに説明しています。
※古事記・日本書紀については原文は読めませんので、翻訳された『古事記(梅原猛著)』と『日本書紀(山田宗睦著)』を参考にしています。


神武天皇の東征

神武天皇
古事記では神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)と呼ばれています。
日本書記では神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)と呼ばれてます。
古事記 日本書記
神武天皇は同母兄の五瀬命(いつせのみこと)と
いっしょに安らかも天下を治められる地を求め東へと
兵を進めます。
そのとき、日向(ひむか)を出発とありますが、天皇の
出身は現在の宮崎県の日向なのか?(九州という説
は有力なようですが、それが宮崎県の日向かどうかと
いうのは不明なようです)
神武天皇は遠方の地はまだ皇化の恩恵を受けておらず、
人々は互いに争いあっていると聞き、それら国々を平定し、
そこへ都を築かねばならないと思い、諸皇子をはじめ水軍
を率い東征を行うべく日向を出発します。(10月5日)(日向
は今津湾の南(現福岡市の西部辺)と言われています)
東征へ出発した神武天皇は、筑紫の岡田宮に到着
し、そこに1年滞在します。
11月9日筑紫の国の岡の水門(遠賀川河口)に到着
安芸の国(広島県) タケリノミヤに7年滞在します。 12月27日安芸の国(広島県)に到着、エノミヤに滞在します
吉備(岡山県)の高嶋宮(たかしまのみや)8年滞在します。 翌年3月6日吉備の国(岡山県)に入り、高嶋宮(たかしまの
みや)へ3年滞在し、船の修理や兵糧を蓄えます。
明石海峡経由し、浪速(なみはや)の船着場(大阪府)を
経由し、白肩津(しろかたのつ)の港へ到着します。そこで
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ=登美毘古・
とみびこ)と戦いになります。このとき、五瀬命が矢を受け
負傷、一時撤退し、紀伊半島を東経路で進むことに変更
します。
矢傷がもとで、紀伊国の男之水門(おのみなと)にて五瀬
命は没することになります。
吉備の国到着から3年後の2月11日吉備の国を出発します。
浪速(なみはや・大阪市)を経由し、3月10日河内の国(大阪
府)の草香村の白肩津(しろかたのつ・東大阪市日下辺)へ到
着します。
4月9日陸路、東へ進軍します。そのとき、長髄彦(ながすね
ひこ)と交戦になります。このとき、五瀬命(いつせのみこと)
が矢を受け負傷し、撤退します。五瀬命は矢傷によって紀の
国(和歌山県)の竃山(かまやま・和歌山市和田)にて没します。
東へ進み、 熊野村(和歌山・三重)へ到着。そこで高倉下
(たかくらじ)が
太刀を献上(夢のおつげにより)します。この太刀の威力も
あり、熊野村を制圧します。
6月23日名草村(和歌山市西南)に到着し、名草戸畔(なくさ
とべ)を討ちます。
熊野(和歌山県新宮市熊野)に入り、高倉下(たかくらじ)が
太刀を献上します。
吉野経由し、 宇蛇(うだ)の地(奈良県)に入ります。そこで
兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)いう兄弟がおり、
兄が降伏といつわって神武天皇を討とうとしますが弟の助け
により、逆に兄を討つことになります。
菟田(うだ、奈良県宇陀郡)へ到着します。天皇は菟田の
首長である兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)兄弟を呼び
出します。
弟はその呼び出しに答え、天皇の軍門に下りますが、兄は
降伏といつわって神武天皇を討とうとしますが弟の助けによ
り、逆に兄を討つことになります。
忍坂(おさか=奈良県)土蜘蛛の乱暴者たちを討ちます。 10月1日国見丘で八十梟帥(やそたける)の軍を撃破し、
その残党を忍坂(おしさか=奈良県桜井市忍坂)村にさ
そいだし討ち果たします。
11月7日磐余(いわれ=奈良県桜井市中部〜橿原市東
南部)に布陣する兄磯城(えしき)へ降伏するよう勧告しま
すが、受け入れないため、討ち滅ぼします。
緒戦で敗れた登美毘古(とみびこ)を討ちます。 12月4日緒戦で敗れた長髄彦を討ちます。
翌2月20日層富県(そほのあがた=奈良県生駒郡)の波
多の山崎の新城戸畔(にいきとべ)、和珥(わに=奈良県
天理市和珥)の坂下の居勢祝(こせのはふり)、臍見(ほそ
み)の長柄(奈良県御所市長柄)の山崎の猪祝(いのはふり)
という三名の土蜘蛛がいましたが、服従しなかったので打ち
滅ぼします。
こうして神武天皇は反抗する国々を平定し、畝傍(うねび
=奈良県)の橿原宮(かしはらのみや)で即位します
反抗する国々を平定し、橿原宮(かしはらのみや)で即位し
ます
古事記と日本書記では人名が異なる(漢字の違い含む)とか、時期、場所が若干異なるということはありますが、大筋の流れでは一致しています。
こうして神武天皇は東征によって大和政権の基礎を築くことになりますが、その勢力範囲はどのくらいだったのでしょうか?
遠征先をすべて制圧したと考えるならば、即位した奈良を中心とする近畿の一部、九州、安芸、吉備ということになります。
その後(神武天皇後)、各地の抵抗勢力を制圧し、勢力を拡大していきます。
そして5世紀になると九州から東北地方の南部までの広い地域を支配するまでになります。
神武天皇の後は、綏靖(すいぜい)天皇(神沼河耳命:かむぬなかかわみみのみこと)、それ以降は安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、開花(かいか)天皇と続きます。
しかし、神武天皇以降のこれら8名の天皇は一般的に架空の人物であるという考えが主流で、そのため、欠史八代とも呼ばれています。また、第15代応神天皇以前の天皇はすべて架空の人物であるという見解もあるようです。

諸国平定

崇神(すじん)天皇(第10代天皇)
古事記 日本書記
北陸地方:伯父の大毘古命(おおびこのみこと)を派遣
東海地方:大毘古命の子 建沼河別命(たけぬなかわのみこと)
を派遣
丹波国:兄弟(?)の日子坐王(ひこいますのみこと)を派遣
上記のように一族を各地に派遣し、反抗する勢力を平定します。


また、山城国(京都)で庶兄の建波邇安王(たけはにやすのみこと)
が反旗を掲げると、大毘古命に命じ討ち取ります
遠方の大王家(天皇)に服従しない勢力を平定するため兵を
派遣します。
北陸地方:大彦命(おおひこのみこと)を派遣
東海地方:武渟川別(たけぬなかわわけ)を派遣
西道(山陽道):吉備津彦を派遣
丹波:丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を派遣
上記のように各地へ兵を派遣し、反抗する勢力を平定します

山背(奈良市の北)の武埴安彦(たけはにやすひこ)が謀反
を起こすと、大彦命や五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)
を派遣して平定します。
※この崇神代に任那国(朝鮮)の朝貢が記述されてます。
景行(けいこう)天皇(第12代天皇)
第11代天皇 垂仁(すいにん)天皇の第三皇子。
この時代は、子の古事記=小碓命(おうすのみこと=倭建命やまとたけるのみこと)、日本書記=小碓尊(おうすのみこと=日本武尊やまとたけるのみこと)の活躍が有名です。
古事記 日本書記
古事記には景行天皇の諸国平定の記述はありません。 大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ=
景行)天皇の討伐
7月熊襲(くまそ)が背いて朝貢しないので、8月5日
征伐に向かいます。
9月5日周芳(すわ)の娑麼(さば)(山口県防府市
佐波)に到着し、南方に住む天皇に従わない賊を
討ちます
10月碩田(おおきた・大分市周辺)に到着、さらに
速水村まで進み、近くの山に住む3人の土蜘蛛を
討ちます。
熊襲の国に対して策略を用いるなどして、翌5月に
はことごとく平定します。
都への帰路、道々で従わないものを討伐します。
倭建命の諸国平定 日本武尊の諸国平定
景行天皇は熊曾建(くまそたける)兄弟を討つよう子の倭建命に
命じます。
景行天皇が熊襲を平定してから14年後(?)、10
月、再び熊襲が反逆します。
景行天皇は子の日本武尊を派遣します。
九州へ派遣された倭建命は熊曾建兄弟を祝いの席で兄弟が
油断しているところを利用して討ちます。
日本武尊は12月に熊襲に到着し、首領の川上の
梟帥(たける)を祝いの席で油断しているところを
利用して討ちます。
都への帰路、出雲の国の出雲建(いずもたける)を討つなど途
中の国々を平定します。
熊襲平定後、都への帰路、吉備の国の穴の海(
福山市周辺)と難波の柏の渡の悪い神を討ちます
倭建命の東国征伐
  尾張国⇒相模国⇒東へ(どの当たりまでいったのかは不明)、
  この遠征先々で朝廷に反抗する勢力を平定します。
  それから西へ進み、甲斐国⇒信濃国と遠征し、反抗勢力を
  平定します。
日本武尊の東国の蝦夷征伐
  東国の蝦夷が反逆するので10月5日蝦夷征
  伐に出発します。
  駿河(静岡県)に入り、そこの賊を討ちます。
  その後、相模⇒上総⇒陸奥の国を経由し、蝦
  夷の支配地に入ります。
  しかし、日本武尊の力を恐れた蝦夷の首長た
  ちは戦わず降伏してしまい。無事蝦夷を平定
  します。
  蝦夷平定後、朝廷に従わない信濃の国(長
  野県)と越(北陸)の国を平定に向かいます。
  ※この信濃、越は平定、もしくは降伏したのか
   ちょっと不明。
このヤマトタケルノミコトの諸国平定によって大和政権の日本国内の統一はほぼ完成したと思われます。
その後天皇は、13代成務(せいむ)天皇、14代仲哀(ちゅうあい)天皇、15代応神(おうじん)天皇と続いていき、朝鮮半島にまで勢力を伸ばすようになります。(日本書記では崇神天皇の代から朝鮮に勢力を伸ばしてますが)
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