<弥生時代U>


小国家分立

弥生時代に入ると、稲作による生産経済が発達し、冨による貧富の差が生じ、集落では支配者が誕生しました。これは弥生時代の特徴で述べたとおりですが、この集落を支配したものはさらに大きな富を求めるようになり、集落どうしで争いを起こすようになります。
それによって強い集落が弱い集落を支配していき、国家が成立していきます。
紀元前後にはこのような国家(小国家)が多数存在することとなります。
中国の史書からみた日本
史書名 中国の時代 日本に関する主な記述
「漢書(かんじょ)」地理誌(ちりし) 前漢(BC202〜AD8) 中国では当時日本のことを倭国と呼び、
百余国に分かれていることを記述
「後漢書(ごかんじょ)」東夷伝(とういでん) 後漢(25〜220年) 57年倭の奴国(なこく)が朝貢
 後漢の光武帝(こうぶてい)から印綬をさず
 かる。(1784年に福岡の志賀島で発見され
 た「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」
 と印字されている金印がこのときの印綬で
 あるとされる)
107年別の倭国の王が生口(奴隷)160人を安
帝に献上
「三国志」魏書の東夷伝の倭人条
※通称「魏志倭人伝
三国時代(220〜280) 邪馬台国に関する記述
107年以降朝貢の記述はなくなります。
その頃の倭の様子としては後漢書や次の三国時代の「魏志倭人伝」の中で、倭国は国が乱れ、戦乱が続いたような記述が出てきます。
日本の遺跡でも外敵の侵入に備えた、高地性集落(敵を発見しやすい高地に集落をつくる)や環濠集落(集落の周囲へ壕を堀り、幾重にも取り巻く)が隆盛した時期に当たることや殺傷人骨が増加していることなどから倭国が激しい戦乱に明け暮れていたとみられています。
この時期(2世紀頃)のことを倭国大乱と呼びます。

この大乱の時期を経て、やがて倭国は大きな勢力に統一されていきます。


高地性集落
弥生時代の集落は稲作に便利な低地へ作るのが通常であったが、大乱の時代には敵の侵入に備え、見晴らしのよい高い山の頂上や尾根に集落を築くようになります。この高地に築いた集落のことを高地性集落といいます。
環濠集落
集落の回りに大規模な壕をめぐらせて防御を固めた集落のことをいいます。
唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡(奈良県田原本町)
遺跡最大時の面積が約30万uにもおよび、集落を五重に取り囲む大環濠集落の跡です。
この遺跡が有名になったのは、平成3年の発掘調査で楼閣の絵が描かれた土器の破片が発見されたことによってです。この土器に描かれている楼閣から弥生時代に二階建て以上の建築物が存在したことが証明されました。
その他にも多数の絵画土器が出土しています。
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡(佐賀県神埼郡)
面積が40haにもおよぶ弥生時代最大規模の環濠集落跡です。
邪馬台国ではないかと一躍脚光をあびた遺跡です。
奴  国(なこく)
1世紀頃より、現在の福岡市付近に存在した小国家で、57年に後漢に朝貢したことで知られています。
須玖・岡本遺跡(すぐ・おかもといせき、福岡県春日市)
春日市の中央にある春日丘陵は、ガラス製品、銅剣、銅鏡、かめ棺など弥生時代の貴重な遺物が多く出土しており、「弥生銀座」と呼ばれています。
その代表的な遺跡が須玖・岡本遺跡です。
この遺跡では青銅器など貴重な副葬品とともにかめ棺が出土しており、奴国の王族の墓ではないかと言われており、そのことからこの遺跡付近に奴国の中心があったものと考えられています。

 


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