−弥生時代−  BC300年〜AD300年

<弥生時代T>

農耕社会の成立
1万年近くも続いた縄文時代の晩期、BC5〜4世紀の頃、水田稲作農耕が始まりました。稲作は大陸から北九州に伝わったものだと考えられ、その後、西日本から東日本へと広がり、BC300年頃には水田稲作を基礎とする農耕社会が成立しました。
これを弥生文化と呼び、このBC(紀元前)300年〜AD(紀元後)300年の時期を弥生時代と呼びます。
弥生時代の特徴
弥生時代が縄文時代と比べ、大きく異なる特徴としては、次の3つのことがあげられます。
@狩猟・漁労・採集による自然経済⇒水田稲作農耕による生産経済へ
縄文時代は狩猟・漁労・採集を中心とする生活、自然経済の時代でしたが、弥生時代になると水田稲作農耕が開始され本格的な生産経済の時代となりました。
A鉄器や青銅器などの金属器の使用
BC300年頃、大陸や朝鮮半島から大量の青銅器や鉄器などの金属器がほぼ同時期に伝わり、集落では金属器の製作と使用が開始されました。
青銅器
主に祭り、宗教的な儀式などに使われ、銅剣(青銅の剣)、銅鉾(どうほこ:青銅の矛)、銅鐸(どうたく:青銅で作られた、釣鐘を横からつぶしたような形をしたもの、下のアイコン参照)、銅鏡(青銅の鏡)などがあります。

鉄 器
おの、のみなどの工具、くわ、すき、かまなどの農具、剣、刀などの武器など実用品として使用されました。
B階級の発生
生産経済への移行に伴い、集落(集団)では集落を統率していくため、強力なリーダーが必要となり、階級が発生してきました。、
上記の3点は縄文時代に比べ、弥生時代の大きな特徴として常識的な事項でした。
しかし、近年の発掘などからこの弥生時代の常識が変わろうとしています。

まず@の水田稲作農耕ですが、福岡県板付(いたつけ)遺跡、佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡で縄文時代晩期の水田跡が発見され、縄文時代に水田が存在していたことが判明しました。
Aの鉄器や青銅器などの金属器の伝播ですが、縄文時代の遺跡から鉄器の遺跡が出土しています。
Bの階級の発生については青森の三内丸山遺跡(縄文時代遺跡)では、長期間定住大集落の存在から指導者的立場の人が存在していたのではと考えられることや、島根県門(かど)遺跡(縄文時代遺跡)では溝で囲まれた盛土をもつ墓が発見されるなど何らかの特殊・高い地位の人が埋葬されたのではと考えられ、これら遺跡から縄文時代に階級が発生していたのではって考えられています。
※2003年5月19、20日の新聞等で、国立歴史民族博物館は福岡県福岡市の雀居(ささい)遺跡(弥生時代早期)などから出土した土器に付着した炭化物(米)を加速器質量分析計(AMS)を用いた最新の放射性炭素年代測定法によって調べた結果、紀元前900年前後と判明、同時期とされてきた東北地方や韓国の土器に付着した米の測定結果も似た年代だったことから水田稲作の伝来は、土器が使われていた時代より少し前と考えられることから水田稲作の伝来したの実年数は定説より約500年早まり、紀元前10世紀(1000年)頃と分かったと発表しております。
その結果、弥生時代のはじまりも紀元前10世紀と判定、教科書の書き換えも迫られそうという内容でしたが、どうなるのかな?ここでは水田稲作の伝来は縄文時代末期の紀元前4〜5世紀頃、稲作が日本全土に広がり、農耕稲作社会が成立した紀元前300年頃を弥生時代のはじまりだと説明しましたが、今後の成り行きを見ていきたいと思います。
Cその他特徴
弥生土器
弥生時代は縄文時代より土器作りの技術が進歩し、縄文土器に比べ高温で焼かれ、薄く硬い土器が作られるようになります。
最初の土器が明治17(1884)年、東京の本郷弥生町にある貝塚から発見されたことから、地名をとって「弥生(式)土器」と命名されました。その後、全国各地から同様の土器が発掘されていくこととなります。
弥生土器の特徴としては、農耕文化の発展に伴い、保存用の壷、カメ、調理用の、カメ、鉢、盛り付けようの高杯(たかつき)など機能面を重視した形態となっており、文様は縄文土器に比べ簡素なものが多くなっています。
生活
稲作の普及に伴い、人々は稲作の耕作に便利な低地に定住するようになります。住居は縄文時代と同様に竪穴式住居と呼ばれる住居に住み、収穫した米などを湿気、ねずみから守るため、高床式倉庫を作って貯蔵するようになります(それ以前は地面に穴を掘って保存していた)。
高床式倉庫の広まりにつれて、高床式の住居も増えていきます。
集落
弥生時代では、住居や倉庫で構成する住居群が数棟単位、多いところでは数十棟単位で集まり、集落を形成しました。この集落は、住居群を濠(ほり)で囲んだもので環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれています。また、弥生時代中期から後期にかけては丘陵上に集落をつくるという高地性集落も現れます。
これら集落は防御機能を重視する考えから作られていったと考えられます。


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