大和政権の国土統一

4世紀の中ごろ、大和地方(奈良県南部)に大王(皇室の祖先、のちに天皇と呼ばれる)を中心に周辺豪族らが連合した政権が成立します。これを大和政権(=大和朝廷)といいます。
大和政権の成立は、大きく分けると次の3つの説があります。
@邪馬台国=大和政権
邪馬台国の所在は、先に畿内説と九州説があることを説明しましたが、1つは邪馬台国は畿内にあり、邪馬台国が成長発展し大和政権になったというもので、もう1つは九州にあった邪馬台国が軍団を率いて東征し、大和に政権を作ったという説です。これは両方とも大和政権は邪馬台国が成長・発展して形成したものであるという説です。
A狗奴国東遷説
邪馬台国は壱与の後、急速に衰え、南にあった狗奴国に滅ぼされ、この狗奴国が東征し、大和の地に政権を作ったという説です。
B原大和政権
もともと畿内にあった勢力(原大和政権)が成長・発展して形成したものであるという説です。
※上記3説以外に騎馬民族制服王朝説というのがあります。これは中国大陸の遊牧騎馬民族が朝鮮半島を経由して、日本列島に侵入し、統一国家を打ち立てたする説であります。
大和政権は、国土統一に向け激しい戦いを繰り返し、当時畿内(大和政権)以外の勢力である出雲(鳥取方面)、吉備(岡山方面)、尾張(愛知方面)、筑紫(福岡方面)、越(北陸方面)などの各勢力を従属させ、5世紀頃には九州から東北地方南部にいたる地域を支配するまでになります。
大和政権の成立及び国土統一に関する記述は「日本書紀」と「古事記」でみることができます。ただ、双方とも神話的要素が強い書物なもんで信憑性について問題がありますが、とりあえず簡単に整理しましたので、ご覧になりたい方はここをクリックして下さい。
また、大和政権は4世紀の後半には朝鮮半島南部にも進出していきます
<朝鮮情勢>
大和政権が日本統一に向け動いていたころの朝鮮半島の状況は、朝鮮北部においては、中国東北部からおこった高句麗が、次第に朝鮮北部にまで領土を拡大していきます。そして313年には中国の植民地であった楽浪郡を滅ぼしてしまいます。
一方、南部においては3世紀には馬韓(ばかん)、弁韓(べんかん)、辰韓(しんかん)という小国の連合が形成されていましたが、4世紀になると馬韓から百済(くだら)、辰韓から新羅(しらぎ)がおこりそれぞれ国家を形成していきます。残る弁韓については国家としては統一されず、日本書紀によると、その地域を任那(みまな)と呼び、日本の植民地(任那日本府)であったとされています。これはあくまで日本書紀に記述されていることであって、伽耶(かや、伽羅)と呼ばれる小国家連合が形成され、5〜6世紀まで続き、任那日本府と呼ばれるものは大使館的存在であったという説もあります。任那日本府が存在した場合でも、存在しなくても日本がこの伽耶地方と密接な関係にあったのは間違いないようです。
朝鮮南部に進出した日本は、朝鮮半島南部に勢力を拡大しょうとする高句麗と交戦するようになります。
高句麗の王都であった丸都にある好太王碑(広開土王碑)の碑文には、倭と高句麗の戦いなどが刻まれています。(好太王碑の碑文の解釈は歴史家によって大きく異なっています。ここに記載されている碑文内容はいくつかの資料を参考に簡単にまとめたものです)
391年 倭国が朝鮮に進出し、百済と新羅を破り属国とした
396年 高句麗が新羅を支援して倭国を破る
404年 倭軍が帯方地方に侵入し、高句麗軍と交戦し敗れる
こうした朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、5世紀の始め頃より、中国の南朝(宋)に使いを送り朝貢するようになります。
中国の史書「宋書」「梁書」に倭の五王に関することが記述されています。
「梁書」:南朝は宋の後に斉が興りますが、その斉の後に興った国が梁で、その国の史書です。
倭の五王=讃(賛):さん、珍(彌:み):ちん、済:せい、興:こう、武:ぶの5人のことで( )内は梁書で記述されている名で( )書きがある2箇所は宋書と梁書で異なりますが、他3つの名は一緒です。これから2箇所異なるとこがあっても同一人物と考えて差し支えないと考えます。
これを日本の天皇(大王)に当てはめると、
讃=応神(おうじん)・仁徳(にんとく)・履中(りちゅう)天皇の三説があります、珍=仁徳・反正(はんぜい)天皇の二説があります、済以降は、ほぼ歴史家の意見が一致しており、次の通りです。済=允恭(いんぎょう)天皇、興=安康(あんこう)天皇、武=雄略(ゆうりゃく)天皇となっています。
<倭の五王の中国朝貢>
421年 倭の讃、宋の武帝より徐綬を賜る
438年 珍、宋に朝貢、安東将軍の称号を得る
443年 済、宋に遣使
462年 興、宋に遣使
478年 武、宋に遣使
<中国文化の受容>
こうした朝鮮半島や中国との盛んな交渉によって,、鉄器の生産、金属工芸、土木などの新技術が主に朝鮮半島からの渡来人によって伝えられました。大和政権は渡来人を韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)などの技術集団に組織し、各地に居住させたので、それら技術は日本各地に広がりました。
また、文字・漢字の使用もはじまり、6世紀になると儒教や仏教が伝えられました。

原始・古代の日本TOP  次へ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送