中央集権への歩み

1.朝鮮半島情勢

5世紀に入ると高句麗と百済の間で激しい抗争が起こります。そして475年には百済の王城である漢城が高句麗に攻め落とされ、百済王は殺されてしまいます。百済は王城を南の熊津(くまなり)、さらに扶余(ふよ)に遷都し,南へ勢力を移していきます。
このとき、日本が勢力基盤をもっていた伽耶(かや)地方(日本書紀では任那日本府)にまで勢力を広げていきます。
512年に大連の大伴金村(おおとものかなむら)は百済に伽耶地方の4国を割譲します。(独断裁定でもって)
6世紀に入ると力をつけてきた新羅が残った南伽耶地方に侵入を始めます。
この時、大和政権は援軍を送ろうとしますが、筑紫の磐井が乱を起こし、朝鮮へ援軍を送ることができなくなります。この磐井の乱は後ほど詳しく説明しますのでここでは飛ばします。

2.王統の断絶

506年に武烈(ぶれつ)天皇が亡くなると、天皇に跡継ぎがいなかったため、神武天皇以来続いた王統が断絶するという状態を迎えることとなります。
大和政権内では次なる天皇を誰にするかってことで、豪族間で熾烈な争いが起こります。
結局、そのときの実力者である大伴金村が、507年に越前から応神天皇の5世孫と称する男大迹王(おおどのおう)を迎えて即位させ、継体(けいたい)天皇とします。
しかしながら、それに反対する豪族たちも多く、継体天皇は即位しても大和に入ることができませんでした。そのため、先々代の仁堅天皇の娘、手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后へ迎えることによって前の王統と血縁関係を築き、反対勢力と融和を図ります。
それによって、継体天皇は20年かけてやっと大和に入ることができました。

3.磐井の乱

526年になってやっと大和に入ることができた継体天皇ですが、527年に筑紫の磐井が反乱を起こします。
この乱は、先に述べたように新羅が大和政権が勢力基盤をもつ伽耶地方に侵攻したことに端を発し、日本がこれを阻止するため、近江毛野(おうみのけの)に6万の大軍を率いらせて出兵します。
近江毛野軍が朝鮮半島に渡海しようとするのを筑紫の磐井(日本書記では筑紫国造(くにのみやつこ)の地位にあることになってます)が阻止します。こうして近江毛野軍は朝鮮半島に渡海できず、足止めされてしまいます。これは新羅が磐井と手を結んでいたもので、一説には新羅から賄賂をもらっていたともいわれています。
これに対して528年8月、継体天皇は磐井の討伐命令を下し、物部麁鹿火(もののべのあらかび)が大軍をもって磐井の討伐に向かいます。
物部麁鹿火の軍と磐井の軍は筑紫国三井郡で激突し、激しい戦闘の末、磐井は斬られ敗れることとなります。磐井の息子の葛子(くずこ)は粕屋(かすや)を屯倉としてを献上し、父の罪に連座されるのを許してもらうように願っております。

磐井の乱鎮圧後、近江毛野は渡海することができ朝鮮半島へ行きます。しかしながら近江毛野の半島経営のまずさから、新羅・百済の反感を買い、半島経営は行き詰まりをみせます。結局は、562年に伽耶地方は新羅に征圧されることとなります(任那日本府の滅亡)。

4.中央集権国家への歩み

地方の反乱である筑紫磐井の乱を平定後、大和政権は屯倉(みやけ)、名代(なしろ)、子代(こしろ)などを地方の各地へ置き地方に対する支配を強め、中央集権国家への道を歩みはじめます。(この磐井の乱を平定し、大和政権が確立したといわれています)

そして大和政権の勢力拡大に伴い、政権の中枢を構成する有力豪族の力も強大なものになっていきます。それら豪族たちは互いに対立するようになってきます。

まず。540年に大伴金村は朝鮮半島に対する失策(独断で伽耶地方の4国を百済に割譲した件)を物部麁鹿火に糾弾され、失脚することとなります。
そして6世紀の中頃になると新たに台頭してきた大臣の蘇我氏と大連の物部氏が対立するようになってきます。

5.蘇我氏と物部氏の対立

蘇我氏が歴史の舞台に登場するのは遅く、大伴氏や物部氏のように神話時代から登場しているのとは異なります。蘇我氏は大和地方南西部に基盤をもち、天皇家の外戚となっていた葛城氏から分立した豪族であります。蘇我氏は蘇我稲目(そがのいなめ)の時に大臣に任じられます。稲目は二人の娘を欽明(きんめい)天皇の后とし、天皇家の外戚として大和政権内での地位を確固たるものとしていきます。
この稲目は、538年に百済より伝来した仏教に対し、これを受け入れるか否かという問題で、大連の物部尾輿(おこし)と対立します。
物部尾輿=廃仏派(物部氏以外に中臣氏も廃仏派)
外国の神を受け入れれば、日本古来の神が怒るという理由から仏教を排除すべきと主張します。
蘇我稲目=崇仏派
大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきであると主張します。
欽明天皇は、仏教を受け入れるかどうかという問題に対し、試しに拝んでみるようにと稲目に託します。
そのため、稲目は寺をつくり、仏像を安置し拝むこととなりました。(向原(むくはら)に寺をつくりますが、これが日本最初の寺ということになります)
そのとき、国内では疫病が流行りはじめ、仏教が原因であると尾輿は非難し、570年に稲目が死去すると天皇に許しを得て寺を焼き払います。寺は焼けても仏像は焼けなかったので、難波の堀江に投げ込んだとされています。でも疫病はいっこうに治まらなかったようです。
この稲目と尾輿の対立は、その子供である蘇我馬子(うまこ)と物部守屋(もりや)まで持ち越します。
584年 百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を持ち帰ります。蘇我馬子はそれを仏殿を建てて安置します。
欽明天皇の次の天皇である、敏達(びたつ)天皇がこのことを容認したことから、仏教問題・蘇我氏と物部氏の対立が再燃します。
そして父の代と同様に、国内に疫病が流行ると、守屋は天皇に仏教が原因であると説き、仏像を焼き払ってしまいます。しかしながら疫病を衰えず、天皇まで死んでしまいます。
さてさて、そうなると蘇我VS物部の仏教対立は、次の天皇の後継者争いにまで発展してきます。
そのときは馬子に軍配が上がり、586年に蘇我氏の皇女が産んだ崇仏派の用明(ようめい)天皇が即位することとなります。しかしながら、この用明天皇は病のため、翌年には亡くなってしまいます。またまた、後継者争いが再燃します。
そのとき、穴穂部皇子(あなほべのみこ)という皇子がいました。穴穂部皇子は欽明天皇と蘇我小姉君(おあねのきみ:稲目の娘)の子で、出世欲が強いようで早い時期から天皇の座を狙ってました。この穴穂部皇子には物部守屋が後押しをします。
用明天皇が亡くなると、敏達天皇の皇后であった額田部皇女(ぬかたべひめみこ=炊屋姫皇女かしきやのひめみこ)がいる殯宮(もがりみや=天皇の死体を安置して祀るところ)に侵入し、額田部皇女を我が物とし天皇に即位又は、額田部皇女を脅して天皇に即位しょうとしました。しかしながら、そのときは敏達天皇の忠臣である三輪君逆(みわのきみさかう)にとがめられ、失敗します。この一件で三輪君逆をうらんだ穴穂部皇子は物部守屋に依頼して三輪君逆を殺してしまいます。そのため、穴穂部皇子は額田部皇女から完全に敵視されるようになります。
物部守屋が後押しする穴穂部皇子と蘇我馬子・額田部皇女の対立・次なる後継者争いが激化していきます。このとき蘇我馬子は先手を打ち、穴穂部皇子へ兵を向けます。
587年 穴穂部皇子は馬子の軍勢によって討ち取られてしまいます。
守勢にまわってしまった守屋は、本拠地である河内国の渋川(現在の大阪府八尾市)にこもって応戦します。馬子は額田部皇女を味方につけたことから、蘇我側には大伴、安部などの諸豪族、厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子)、泊瀬部皇子(崇俊天皇)、竹田皇子(額田部皇女の子)などの諸皇子が加わります。
両者の合戦は当初は守屋側に有利に展開しましたが、最終的には数で勝る馬子側の勝利となり、守屋は討ち死にすることになります。(日本書記には聖徳太子の従者の放った矢にあたって死んだとなっています)
※2001年11月にNHKのドラマスペシャルかなんかで「聖徳太子」が放映されてました。聖徳太子は本木雅弘が演じ、他は穴穂部皇子:柄本明、蘇我馬子:緒方拳、物部守屋:宝田明、額田部皇女:松坂慶子がそれぞれ演じてました。そのドラマは前編が物部と蘇我の対立を中心に描いており、内容はこれまでの説明とほぼ似通っています。そして物部守屋が死ぬのは聖徳太子の従者である伊真(いしん)の放った矢(聖徳太子が指示する通り矢を放ったら当たってしまう)があたったためでした。
この前半部分が好きでテレビ録画してたんで、何度も見てたんですが、間違えて消してしまいました。販売もしているようですが、第一部だけでもいいから、もう一度再放送してくれないかな〜。
587年におきたこの戦乱のことを丁未の変といいます。
宿敵物部氏を滅ぼした、蘇我馬子は蘇我氏出身の后が産んだ泊瀬部皇子を即位させます。これが崇俊(すしゅん)天皇です。
その後、大和政権内は蘇我氏が大きな力を持ち、権勢を振るっていきます。


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