3.尚巴志による琉球統一

尚巴志の誕生


第一尚氏王統の祖といわれる尚思紹(しょうししょう)・尚巴志(しょうはっし)父子の居城・佐敷グスク跡

尚氏の祖先は伊是名の八蔵大主(やぐらうふぬし)だと言われており、八蔵大主の子、佐銘川大主(さめかわうふぬし)は伊是名島より沖縄本島に渡り、大城按司の娘と結ばれ子を儲けます。
その子を苗代(なえしろ)大親といい、尚巴志の父、尚思紹のことです。尚思紹は大城按司から佐敷間切を与えられ、佐敷按司と称されるようになります。
佐敷按司となった尚思紹は三男一女をもうけ、その長男が尚巴志であります。
尚巴志の生まれた年は1372年だといわれています。
中山攻略
佐敷グスクを拠点とした尚思紹・尚巴志父子は、豊かな耕地と馬天、与那原などの良港を有していたことから交易によって力を蓄え勢力を拡大していきます。
そして1402年、同じ南山領内で勢力をもっていた島添大里城を拠点とする島添大里按司を攻め滅ぼします。
そして居城を大里城に移した尚思紹・尚巴志父子は、続いて1406年には中山王武寧がいる浦添城に兵を進めます。武寧は政治をかえりみず酒色にふけっていたので家臣たちから裏切り者が続出し、簡単に滅ぼされることになります。
ここに察度王統は滅亡することとなります。
尚巴志は父である尚思紹を中山王にします。ここに第一尚氏王統がはじまることになります。そして居城を浦添から首里城へ移します。
首里城への移転は実際何年に行われたのか史料がなく、明確な年代はわかっていません。
北山攻略
中山を制した尚巴志は、次へ北山攻略に乗り出します。当時北山は攀安知が王で強大な勢力をもっていました。しかし攀安知の独裁的で強圧的な政治に対しては家臣たちも不満をもっていたようで尚巴志の呼びかけで国頭・名護・羽地按司など領内の按司たちをはじめ、多くの武将が投降してきます。
1416年尚巴志は、それら投降してきた武将たちと中山の連合軍によって今帰仁城を攻め立てます。数で圧倒する中山軍ですが、対する攀安知も武勇で有名な持ち主であり、また、攀安知が立てこもる今帰仁城も堅固な要塞なため、城を落とすことはできませんでした。
しかし、最後には攀安知の腹心・本部大原(むとぅぶてぃーはら)の裏切りによって攀安知は討たれ、北山は歴史の幕を閉じることになります。
尚巴志に制圧された今帰仁城は、その後北山地方を統治するために看守が置かれました。
南山攻略(琉球統一)
1421年尚思紹が死去すると尚巴志が王位につきます。
1427年に首里城の外苑を整備し、北にりゅうたん池を堀り、南に物見台を築き、周辺に木々や花木を植えるなど大規模な工事を行っています。これはそのときに建立された「安国山樹華木之記碑(あんこくじゅかもくのきひ)」という石碑によって知ることができます。1427年に大規模な工事が行われてということは、王城の首里城移転は1427年より前、中山攻略の1406年の後だと考えられます。
さて、中山、北山と二山を制した尚巴志ですが、残りは南山1つとなります。
南山は当時他魯毎(たるみー)が王で権勢をふるってました。しかし、他魯毎は人民の生活をかえりみない悪政をふるっており、人心はすでに他魯毎から離れており、1429年尚巴志が大軍をもって攻め入り、滅亡することとなります。
嘉手志川(カデシガー)伝説


糸満市大里にある水源地

尚巴志の金の屏風を欲しがった他魯毎は南山の水源地である嘉手志川と交替します。そのため、南山の人間は勝手にはこの水を使用することができず非常に困り、そのため、どんどん中山に寝返えっていきます。
そのため、他魯毎は南山の人々の支持を失い、尚巴志に攻め込まれ滅びることになります。
このような南山城落城にまつわる伝説をもつ水源地です。
南山王・他魯毎を滅ぼした尚巴志は、これによってはじめて琉球全土を統一することとなります。


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