新石器時代(貝塚時代)
港川人などが生活していた旧石器時代を経て、今から7000〜6000年頃に土器や石斧などの新石器(旧石器については沖縄ではまだ発見されていません)を使って生活するようになってきます。この新たな文化は遺跡が近海に生息する各種貝類、魚の骨、獣の骨などで構成される貝塚が主なことから「貝塚文化」と呼ばれています。これは日本史の縄文時代に該当するものであります。縄文時代の頃は九州とも交流があり縄文土器に該当する土器なども作られています。
しかし、日本が縄文時代から弥生時代になる頃、沖縄では弥生時代の特徴とされる稲作文化を受け入れず、日本の平安時代の頃まで(沖縄ではグスク時代と呼ばれる頃まで)、採集・魚労中心の文化が続きくこととなります。
この7000・6000年頃から平安時代の頃までの時代を沖縄では貝塚時代と呼びます。
貝塚時代は土器や石器などの変化をめどに「早期」(6600〜4000年前)、「前期」(4000〜2800年前)、「中期」(2800〜2200年前)、「後期」(2200年〜900年前)の4つに区分しています。
区分 年代 遺跡等 貝塚時代早期 6600〜4000年前 渡具地東原(とぐちあがりばる)遺跡(読谷村)−標高2,3mの低地に存在
爪形文土器(つめがたもんどき)であるヤブチ式土器と東原式土器の発見
(6600年前の沖縄では一番古い土器、九州にも同様な土器があることか
ら九州より伝わったものと考えられます)
石斧の出土
野国(のぐに)貝塚B地点(嘉手納町)、藪地洞窟(やぶちどうけつ)遺跡(与那
城町)
渡具地東原遺跡と同種の土器が出土
渡具地東原遺跡(上記より上層部)
曽畑式(そばたしき)土器の発見(4800年前の土器、九州に同様な土器が
あることから九州より伝わったと考えられます)
伊是名島の具志川島西地点
具志川式土器の出土(琉球独自の土器)
※遺跡が沿岸に多いことや、遺跡から魚介類やイノシシの骨が出土している
ことなどから沿岸部に住み魚労や狩猟中心の生活をしていたとみられます。
また、竪穴式住居の発見などからこの時代から定住生活が営まれていたと
思われます。〃 前期 4000〜2800年前 荻堂貝塚(北中城村)
荻堂式(おぎどうしき)土器(琉球独自の土器)
嘉手納貝塚
荻堂式土器
両刃の石斧などの石器の出土
伊波貝塚(石川市)
伊波式土器(琉球独自の土器)
浦添貝塚(3000年前)
市来式(いちきし)土器(九州縄文時代後期の土器)
※この時期は九州との文化交流はあったものの、琉球独自の文化を築きつつ
あったものと思われます。〃 中期 2800〜2200年前 西長浜遺跡(今帰仁村)
竪穴式住居
地荒原(ちあらばる)遺跡(具志川市)
敷石住居跡
苦増原(にがましばる)遺跡(具志川市)
炉跡を伴う住居跡
壷形土器
上原濡原(うえはらぬーりばる)遺跡
原始農耕を示す畑跡
※上記の遺跡などから、これまで海岸線近くになどに住居を構えていたものから
内陸部 の広い台地に住居を構えるようになり、住居の数も増え集落を形成
していったことなどが伺えます。
また、壷形土器や畑跡の発見から原始的な農耕がはじまり、それらを保存
する土器も使用されていました。〃 後期 2200〜900年前 この時期の土器は単純化し、文様がまったくない土器が作られるようになりま
す。
具志原(ぐしばる)貝塚(伊江島)
弥生式土器の発見(九州から移入されたもの)
青銅器や鉄器などの金属器の発見
宇堅(うけん)遺跡
金属器の発見
※弥生式土器、金属器の発見により、本土との交流が盛んだったことをうかが
せます。また、中国の貨幣なども出土しており、中国大陸との交流があったこ
ともわかります。
※爪形文土器
人の爪やそれに似た道具で爪型の文様を描いた土器のことで、日本では縄文時代の草創期に登場します。
九州でも約1万年前頃には登場しており、その土器と類似点が多いことから九州から沖縄へ伝わったものと考えられます。
東原式土器
爪型文と指頭押圧文(しとうおうあつもん)が組み合わさった文様の土器のことです。
指頭押圧文も日本では縄文時代の草創期に登場しています。
ヤブチ式土器
指頭押圧文を施すときについた爪あとをもつ土器のことです。
日本・中国の史書からみた沖縄
「隋 書」(中国−隋王朝時代の正史)
607年 皇帝煬帝(ようだい)が朱寛(しゅかん)を流球(りゅうきゅう)に遠征させ、流球を従わせようとしたが、流球がこれを拒否したとあり、その後も何度か部下を流球に派遣し、服従させようとしますが流球はこれを拒否したと記述されています。
「隋書」の東夷伝の中にある「隋書流球国伝」の記録には、当時の流球の国の特徴、民の生活、風俗などの様子が細かく記述されています。
ただ、この「流球」が沖縄だったのかどうかということは、他に流球は台湾であるという学説もあり、論争があったようですが決着はつかず、はっきりしていないようです。
「日本書紀」「続日本紀」
7世紀初頭南島の人々が大和朝廷に朝貢し、位を授かっていることが記述されています。
その中に球美(くみ)=久米島、信覚(しがき)=石垣島の記録が出てきます。
「唐大和上(だいわじょう)東征伝」「続日本紀」
753年 鑑真(中国から日本に招かれた僧)が日本にむかうため乗った船団が阿児奈波(=沖縄)に漂着(漂着か航路の1つとして到着したのかは不明)したことが記録されています。
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