1.グスク時代のはじまりとグスクの変容



玉城城跡(玉城村)

12世紀に入ると、これまでの狩猟・漁労・採集を中心とする自然経済から、鉄器などをともなった農耕中心の生産経済へと移行していきます。
そして、人々は農耕に適した内陸部の平地に定住して集落を形成するようになります。生産経済への移行により、貧富の差が生じたり、集落の支配者が登場してきます。これは日本の弥生時代に水田稲作農耕の普及によって貧富の差が発生し、集落を支配するものが登場しますが、それと同様のことが沖縄でもおきます。ただし、時代は1000年以上遅れていますが。
この集落に登場した指導者を按司(あじ)といいます。按司たちはグスクと呼ばれる城塞を築いて相互に争うようになります。
この争いの時代を「グスク時代」といいます。この時代は離島も含めると約500〜600余のグスクが築かれ争いを繰り返していきました。
グスクとは
グスクとは一般的に石灰石の石垣をめぐらし築かれた城壁をもつ城塞(防御機能をもつ)で、按司の居城だと考えられていました。
中城城や勝連城などのように大きな城壁をもち、支配者の居城だとすぐわかるグスクもありますが、中には防御機能をもたないグスクや人里離なれた小高い丘にある拝所(はいしょ)などもグスクと呼ばれており、城塞=(イコール)グスクとは限らないようです。そのため、グスクに関してはさまざまな視点によっていろいろな意見があり、論争もかなり繰り広げられたようです。しかしながら現在でも結論には至ってないようです。
では、「グスク」とはいったいなんだろうって疑問に関するいろいろな意見をみてみると下の3つの説が代表的な考え方のようです。
@聖域説
村の聖域(神の在所等)に当たる場所を石垣で囲み、人々が拝むことができるよう拝所をセットしたものがグスクである。という説です。グスク内には必ずといっていいほど拝所などの聖域が設けられていることから、中城城や勝連城などのように大型の城壁を持つ城も、聖域としてのグスクが発生した後に大型の城として発展していったもので、その根本は聖域であるという考えです。


中城城内にある拝所

A集落説
グスクとはむかしの人々が住んでいた集落であったという説です。この考えはグスクを3つの形態に分類(1.政治権力者の居城、2.自衛意識をもって形成された集落、3.発生当初からの墓地、拝所)しますが、その根本は「自衛意識をもって形成された集落(防御機能を有する)だというものです。
B按司居住説
グスクとは支配者である按司の居住地であるという説です。
グスクとはという疑問に対して結論は出てないようですが、@(聖域)、A(集落)が発展していってB(按司の居城)になった、また、発展過程でA(集落)のままとか@(聖域)のままで、B(按司の居城)にまで発展しなかったものもあるとするのが一般的な考え方のようです。
グスク時代の変容
グスク時代の初期は、自然石を野面積みした石垣で、広さは1000u未満の小規模で単郭のグスクが多く築かれました。やがて勢力をもった按司の中には広さ1000〜5000uの中規模のグスクを築くものが現れるようになります。
12世紀の後半になると、これまでの野面積みから切石積みで強固な城壁をつくるようになり、城郭も複数もつなどグスクは進歩していきます。
13世紀から14世紀にかけて、按司の中には海外との交易に力を注ぐものもあらわれ、この冨によって勢力を拡大していきます。そして勢力を拡大した按司は、他の弱小按司たちを勢力下に組み入れさらに勢力を拡大していきます。グスクも大規模なものが築かれるようになります。
このように按司の中でも勢力を拡大していった強力な按司たちを「世の主」(よのぬし)と呼びます。

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