三山時代

中 山


中山の居城となった浦添城跡です

舜天(しゅんてん)王統
天孫(てんそん)王統は、1187年に臣下の利勇(りゆう)の反乱によって滅ぼされてしまいます。
天孫王統の滅亡によって、国は乱れてしまいます。
そのような中、浦添按司の尊敦(そんとん)が兵をあげ、利勇を討ち滅ぼします。そして人民から支持され国王(中山王)に就きます。
尊敦は名を舜天とし、舜天王統を打ち立てることになります。
舜天については、中山世鑑で、源為朝(ためとも:保元の乱で敗れて八丈島へ流される)と大里按司の妹との間に生まれた子供であるという為朝伝説があります。
舜天王統は舜天の後、1238年に舜馬順煕(しゅんばじゅんき)、1249年に義本(ぎほん)と王位は引き継がれていきます。
しかし、三代目の義本のときに国中が飢饉や疫病の災難に襲われます。義本は自分に徳がないため、このような事態になったとし、王位を伊祖グスクの恵祖(えそ)の世の主の子、英祖に譲位します。
英祖(えいそ)王統


英祖の出身、伊祖グスク跡です。現在公園になっています

義本から王位を譲位された、英祖は1260年に即位し、英祖王統を確立することとなります。
英祖が即位すると、飢饉や疫病はおさまり、国中が平和になります。そして英祖は土地の境界を定め、農民に田畑を配分し、農耕を指導したので、豊作にみまわれ国中が豊かになったといわれています。
英祖の生誕伝説
英祖の父、恵祖の世の主は、伝説の王統、天孫氏の後裔だといわれています。恵祖の主には長い間子供ができなかったんですが、ある日妻が日輪の夢を見て懐妊し、そして生まれたのが英祖だと言われています。
そのため、英祖王の神号も「英祖太陽子(えそのてぃだこ)」(=英祖日子)と称されております。
英祖は1261年に浦添グスク近くに極楽山と称する墓稜を築きます。のちに「浦添ようどれ」と呼ばれるようになります。


(浦添ようどれは浦添グスク内にありますが、私が行った2003年5月はご覧のように工事中で立ち入り禁止となってました)

1261年久米・慶良間・伊平屋の島々が中山に対し入貢します。続いて1266年には奄美が入貢してきます。そのため、泊村に公館や公倉を設けて入貢の品を管理しています。
さて、英祖の時代に中国では元(蒙古)が興ります。蒙古はフビライの時代、1274年の文永の役、1281年の弘安の役と二度に渡り日本に侵攻します。
その後、1291年と1296年の二度に渡り「瑠球」に侵攻したことが、元の史書である「元史」に記載されています。この「瑠球」が沖縄であったかどうかというのは、「瑠球」は台湾であると唱える学者もいることからはっきりしておりません。

1299年に英祖は世を去り、その後二代大成(たいせい)、三代英慈(えいじ)、四代玉城(たまぐすく)、五代西威(せいい)と王統は受け継がれていきます。四代の玉城の代に国がみだれ3つの大きな勢力に分かれたと史書には記されています。
この大きな3つの勢力、すなわち北山、中山、南山の三山の勢力なのか?
そうだという説もあり、年代的にも一致はするものの、先に舜天王統の勢力は浦添を中心とする中山の範囲内であると述べましたが、それからすると、舜天王統を引き継いだ英祖王統の勢力も中山の範囲であると考えられることから、中山の範囲内で国が乱れたという説もあり、なんともいえません。
ここでは中山に続いて南山、北山の説明をしていきますが北山の流れがこの乱れに深く関わっていますので、先に記述したこととは異なりますが、とりあえず3つの勢力イコール、三山として進めます。

国がみだれる中、玉城が世を去り、五代目に西威が即位します。ただ、西威は幼少で政治の実権を握ったのは母親であったため、政治腐敗が進み、人心は王家から離れるようになります。このような中、登場してきたのが貧しい農民から頭角を現した察度(さっと)です。
察度は西威の代に摂政(せっせい)をつとめ、西威が死去すると英祖の王統を廃止し、自ら中山王となります。(人民に押されてなったといわれています)これにより、5代90年続いた英祖王統は滅びることになります。
察度(さっと)王統
1350年に王位についた察度ですが、その生誕には先の英祖、舜天のように伝説が残っています。
羽衣伝説
奥間大親(おくまのひや)という謝名村(じゃなむら=宜野湾市)の農民と天女との間にできた子が察度であるという伝説です。(奥間大親はある日森の川の泉で水浴びをしている天女を見つけます。そして木の枝にあった天女の羽衣を隠してしまいます。そのため、天に帰れなくなった天女を家に連れ帰り、二人は夫婦になったということですが、日本の昔話で聞いたことがあるようなお話ですが、まあ、この二人の間に出来た子が察度という伝説です)
また、察度が生まれた謝名村は貧しい村でしたが、金塊が豊富にあったそうです。村人たちは金塊価値を知らなかったようで、金塊の価値を知った察度が、牧港に入港する商人から金塊で鉄を購入し、それで農具をつくりました。察度はその農具を村人たちに与えたことにより農業生産が向上し、村は豊かになったという黄金(くがに)伝説も残っています。
察度が王位についた後、中国では元が弱体化し、1368年になると漢民族の国家「明」が中国を統一します。
明は近隣諸国に朝貢するように働きかけます。
冊封(さくほう)体制
明が近隣諸国を支配するためにとった体制で、簡単にいうと明を盟主とし、明の臣下になることです。
朝貢とは明皇帝に対し忠誠を誓う証として、明へ使者を送り貢物を奉じることで、朝貢(=明に服従)を行った国は、臣下として明の冊封(王としての地位を承認される)を受けます。
多くの近隣諸国が、この冊封体制を受け入れます。それは冊封体制に入るということは中国との貿易が認められることになり、その貿易からあがる利益は莫大なものであったからです。
その明ですが、1372年には琉球にも使者を送ります。
察度は、直ちに明の求めに応じ、同年明に対して使節を送り、入貢することとなります。
この中山の入貢に続いて、1380年南山王の承察度(しょうさっと)、1383年には北山王の怕尼芝(はにじ)が入貢して三山ともに明の冊封体制に入ることになります。

他の二山に先がけ、明へ入貢した察度は、中国との進貢貿易を積極的に推進していきます。朝貢回数においても他の二山と比べても群を抜き(中山42回、南山24回、北山11回)、中国へ留学生を派遣したり、中国からの渡来(久米36姓=那覇の久米に居住)を受けるなど文化的交流も積極的に進めます。
その結果、留学生や渡来人から中国の優れた学問、社会制度、造船技術、航海技術などが伝わり、それらを導入し中山は大発展していきます。特に造船技術と航海技術の導入によって、朝鮮や東南アジアにまで貿易を拡大し、大交易時代の基礎を築くことになります。
こうして、中山は三山の中で最大の勢力を誇るようになります。時代は中山による琉球統一に向け動き出すのですが、そのような中、察度は1396年に死んでしまいます。
その跡を子の武寧(ぶねい)が継ぎ察度王統の2代目として王位につきます。しかし、武寧は、酒色にふけり政治をかえりみなかったと伝えられており、せっかく中山の琉球統一の基盤ができあがっていたのに武寧の悪政により人心は武寧から離れていき、ついには1405年に佐敷按司の尚巴志によって滅ぼされてしまいます。
これにより察度王統は滅亡し、時代は尚巴志による琉球統一に向かって進みはじめます。


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