南  山(山南)


南山王の居城となった南山城跡(別名:島尻大里城)です

南山の成立と承察度
南山王が歴史的に登場するのは、承察度(しょうさっと)が明に朝貢した1380年からです(明の史書=明実録)。
それ以前の史料はなく、南山城がいつ築かれ、南山の勢力が築かれていったのかははっきりしておりません。
南山は糸満市大里を拠点とする勢力で、そこを治めていたのは大里按司と呼ばれる按司で、承察度も何代目かの大里按司です。
それでは承察度の何代前の大里按司によって南山城が築かれたのか?は三代前とか一代前(承察度の父親が)とかいろいろな言い伝えがありますが、ここでは承察度の一代前、承察度の父親の代に築かれたと仮定して進めます。
その考えからすると、14世紀の初期〜中期頃(承察度の一代前ならこんなもんかな)に初代大里按司によって南山城は築かれたことになります。

南山城を築いた大里按司は、当初、糸満市の大里、真壁、兼城を支配し、次第に勢力範囲を拡大していきます。
そして、承察度の代になると豊見城、喜屋武、摩文仁、東風平、具志頭、玉城、知念、佐敷、島添大里にまで勢力範囲を拡大し、三山時代の一大勢力である南山という勢力を築くことになります。
勢力を拡大した承察度は、中山に続いて1380年に明に入貢しています。
その後、2,3年おきに使者を送り、1396年までに8回の使者を送り込んでいます。1392年には中山に続き、留学生も派遣しています。
島尻大里按司の台頭
初代大里按司は中山への備えとして、島添大里に弟の汪英紫(おうえいじ)にグスクを築かせます。この汪英紫は承察度の叔父にあたり、次第に勢力を拡大していきます。


大里城跡(島添大里城)

汪英紫は敵対する大城グスク(大城按司)を滅ぼし、佐敷、馬天、知念など南山の東北半分を支配下に治めるようになり、島添大里按司と称し、本家の大里按司(承察度)を脅かす存在にまでなります。
大城按司との戦い(大城グスク、地図見ながら探したんですが探せず、画像がありません)
これは言い伝えで残っており、史実かどうかというのは不明ですが、戦いの原因は勢力拡大を図る汪英紫と単純に対立したんじゃないかって思うんですが、両軍の争いは大城軍有利に進みますが、大城軍が謝って自軍の旗を倒してしまい、それをグスク内からみていた夫人たちは自軍が敗れたと思い、グスクに火を放ってしまいます。それによって混乱した大城軍は大里軍に滅ぼされることになります。
さて、汪英紫は1388年に王叔(おうしゅく)汪英紫の名で明に朝貢するようになります。本家南山王とは別に朝貢するというのは当時、島添大里按司が本家と対等もしくはそれ以上の勢力を誇っていたと考えられます。
その後も明に使者を送り続け、1397年までに6回の使者を送っています。

そして汪英紫は子の汪応祖(おうおうそ:豊見城城主)と本家南山王承察度を攻めることになります。そのとき、中山王(武寧)と協力したとも、尚巴志と協力したとも言われています。とにかく汪英紫親子は南山王である承察度を追放することとなります。
追放された承察度は朝鮮に亡命したといわれています。
汪応祖
承察度を追放した汪応祖は、1403年明に使者を送り南山王の後継者となったことを報告し、明の冊封を受け正式に南山王として認められます。
汪応祖は王位についた1403年から1413年の間に13回も使者を明へ送るなど活発に貿易を行い、勢力を拡大していきます。
しかしながら汪応祖は、兄の達勃期(たぶち)によって1414年に殺されてしまいます。
他魯毎
汪応祖を殺した達勃期は反逆者として配下の按司たちによって殺され、汪応祖の世子である他魯毎(たるみー)が1415年に南山王となります。
南山王となった他魯毎は汪応祖のとった貿易推進策を継承し、明との貿易を積極的に行います。1415年から1429年の在位期間に7回も明に使者を送るなど、南山の勢力拡大を図ります。
しかしながら他魯毎は人民の生活をかえりみないなど悪政をふるったと伝えられており、そのため、南山の人心は離れて行き滅亡への道をたどることになります。


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