北  山(山北)


今帰仁城跡です。

北山王が歴史的に登場するのも、怕尼芝(はにじ)が明に朝貢した1383年からです(明の史書=明実録)。
それ以前の史料はありません。
ただ、怕尼芝の登場以前については、神話等で伝承されている時代があります。それらの時代も見ながら北山の歴史をみていきたいと思います。
北山の歴史は神話に包まれた「前北山(昔北山)時代」、王位継承をめぐる内乱の時代の「中北山時代」、怕尼芝の登場から北山滅亡までの「後北山時代」の3つの時代があったと伝えられています。
この3つの時代の中で前北山時代は神話の世界なので史実とは異なるのは間違いなく、後北山時代は明実録にも怕尼芝が登場するなど歴史的事実の時代だと思われます。もう1つの中北山時代はどうなんでしょう。琉球の史書によると、この時代の今帰仁城は、中山王統の一族が城主に封じられています。ということは中山の勢力は北山まで及んでいたことになり、前述したように中山は浦添を中心とする勢力であったという考えからすると矛盾します。この辺は琉球の史書が中山系列の琉球王府によって編纂されたもので、中山王統中心に琉球を捉えているためそうなっているのではないかと考えられます。そこからすると中北山時代は歴史的事実なのかっていわれると疑わしい部分が多いと考えられます。
しかし、琉球の歴史は不明瞭な部分が多く、話を繋げるため、先の中山説明では英祖王統の4代目玉城の時代に世間がみだれ三山の時代になったことにしました。そのため、ここでもそれにあわせた形で中北山の時代を説明していきます。
「前北山(昔北山)時代」
伝説上最初の王統である天孫王統、その王統の祖、天孫が今帰仁の地にグスクを築き(今帰仁城)住み着いたことにより、前北山の時代がはじまります。天孫が住み着いたことにより今帰仁の地は大いに栄えたそうです。その後、天孫は越来(ごえく)に移り、後に中山の都である浦添に拠点を求めたと伝えられています。
天孫が今帰仁より移転した後は誰が今帰仁の地を治めたかは定かではありませんが、天孫の一族が治めたのではないかと思われます。
そして、1187年利勇の謀反によって天孫王統は滅亡しますが、天孫王統とともに発展した今帰仁城も、そのとき一緒に滅亡し、前北山の時代も終わりを告げます。
「中北山時代」
中山では利勇を滅ぼした舜天が中山王につき、新たに舜天王統を築きます。舜天の死後、子の舜馬順煕(しゅんばじゅんき)が後を継ぎます。舜天王統の二代目となった舜馬順煕は自分の次男を今帰仁世の主として今帰仁城へ封じます。これが中北山時代のはじまりとなります。
その後、二代目の今帰仁世の主には跡継ぎがいなかったので、中山で舜天王統の次に英祖王統をつくった英祖の次男の湧川(わくがわ)按司が養子となり、今帰仁世の主の跡を継ぎます。
何か、中山の動きに合わせ、天孫王統系⇒舜天王統系⇒英祖王統系と今帰仁城の主も代わっていき、中山の王統を正当化するため無理やりっていうか、つじつまあわせで作られた感もするんですが。
今帰仁騒動
湧川按司から三代後の今帰仁世の主の時代、長らく跡継ぎが生まれなかった今帰仁世の主に待望の若君が誕生し、その若君誕生の祝いの中、家臣の本部大主(もとぶうふぬし)が謀反の兵を挙げます。
祝いの最中で油断した今帰仁世の主は討たれ、城は簡単に落城してしまい、本部大主が北山の権力を手中に治めることとなります。
今帰仁世の主の子、千代松(ちよまつ)は家臣の手引きによってなんとか落ち延びます。

そして18年後に千代松は名を丘春(おかはる)と変え、かっての家臣らとともに挙兵します。そして本部大主が立てこもる今帰仁城を攻め、見事本部大主を滅ぼし本懐を遂げることとなります。
王位にかえりざいた丘春ですが、その頃一族の親川グスクを居城とする怕尼芝(はにじ、湧川按司の子)の勢力が強くなってきます。丘春の次の代になると怕尼芝の勢力はますます強大なものとなり、北山本家の今帰仁城を脅かす存在となります。
1322年怕尼芝は今帰仁城へ攻め込み、落城させます。これによって中北山時代は終わりを告げることになります。
英祖王統の4代目玉城の時代に世の中が混乱し、三山時代が到来したといわれてますが(反説も多し)、それから北山の時代をみると、玉城が王位についてのが1314年、怕尼芝が中山王統系列の今帰仁世の主を滅ぼし、北山王になったのが1322年であることから、この怕尼芝の時代から三山時代へ入ったと考えられます。
「後北山時代」
今帰仁城を落城させ、北山王となった怕尼芝は居城を親川グスクから今帰仁城へ移します。
そして中山、南山に続き、1383年に明に入貢します。以来、交易に力を注ぎ、冨を蓄え、力をつけていきます。
怕尼芝の死後、跡を継いだのが長男のa(みん)です。しかし、在位わずか5年で死去してしまい、在位中に明に一回だけ朝貢していますが歴史的にほとんど登場せずに世を去ってしまいます。
aの跡を継いだのが攀安知(はんあんち)です。攀安知は武勇にすぐれた野心家であったと伝えられ、海外交易に力を注ぎ力をつけ北山の勢力を強大なものにしていきます。
しかし、独裁的で強圧的な政治に対して家臣らの不満も多いことから攀安知の政権も長続きはせず、次の尚巴志の琉球統一に向け時代は進んでいきます。

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